2011年12月1日木曜日

花のように、風のように

「駆け抜けたのねぇ」
庭の草花に囲まれて、すこし恥ずかしげに微笑む母の写真を見て、ケアマネさんがつぶやきました。

ようやく緩和ケア病棟に移ることができたのは11月11日朝10時。
雨雲に覆われたグレーの空の下、ストレッチャーに寝たままの母とかたわらで手を握る私を乗せて、介護タクシーは中野通りを南へ。
中央線のガードの下で信号停止中に、「今、電車が通っているね」などと話したことを覚えています。母にとってそれが最後のドライブになることは、母自身も私もわかっている。

前夜、夕方にしかK病院に来られないT先生が、最後に母と別れを惜しみながらまた大粒の涙を流していたこともよく覚えています。その時が今生の別れだということは、医師であるT先生は誰よりもわかっていたでしょう。


今、あまり詳しく書く気力はないのですが、でも今書かないと忘れてしまいそうな気もして。

10時に病棟に着き、母が自分の病室に落ち着いてから何をしたのかはよく覚えていません。その日は便が上手く出ず(前日まで看護士に抱えられるようにして、苦しい息の下でもポータブルトイレを使っていたけれど、とうとうおむつになっていました)何度かおむつが汚れた気がするといって看護士さんを呼び、拭いてもらったことは覚えています。おしりをきれいに拭いて、おむつを取り替えてさっぱりしたと思ったら、またすぐに汚れた気がして・・・を何度か繰り返し、母は申し訳なさそうにしていましたが、看護士さんはやさしく応対してくれたことがとてもありがたかった。
そうそう、それでおむつが足りなくなりそうなので、病棟の目の前にあるドラッグストアに買いに行ったことも覚えています。母のその時のお気に入り・・というかのどを通る唯一のサイダーと水、お茶も入れておけるよう、追加の吸い飲みも買ったっけ。

病室は差額ベッド代のかかる個室だけあって、K病院とは一変してゆったりと広く、大きな洗面台や大きな液晶テレビ、安楽椅子に家族の寝泊まり用のソファベッドまで。北側全面に広がる窓からの風景は、あまり魅力的とはいえないけれど、光はたっぷりと入ります。
惜しむらくは、ここの液晶テレビでも衛星放送が映らないので、母が毎週楽しみにしていて、その前の週もK病院にいたため見ていない『トン・イ』を見られないこと。翌日、最初の入院の時に買ったポータブルDVDプレーヤーを持って行くことにしていました。

私が病室を出たのは正午を回った頃だったでしょうか。
私はその朝から持病の偏頭痛がして、しかも1時に公証人役場へ出向く約束になっていたんです。前々から母が遺言を書くといっていたのですが、とうとう自筆で書く体力もなくなってしまい、口頭での作成について相談に行ったのですが・・・。母の考えとはいえ、思えば資産家でもないのに、微々たる預金や不動産のためにずいぶんと無駄な動きをしてしまった気がします。1時間でも、10分でも母のそばにいれば良かった。
その午後、少し遅れて妹が来てくれることになっていたこともあり、その日は帰ってしまったのです。
翌日、新しい病室に父を連れてくることにして。


そして11月12日、土曜日。
数日前に母の容態がかなり悪化したことを連絡してあった従兄夫妻が、この日、母の姉である叔母を連れて来てくれることになっていました。
昼過ぎに父と私が到着。
ポータブルDVDプレーヤーやら、その他、母の療養生活での日用品を持って病室に行くと、前日同様、いやそれ以上に呼吸が辛そうです。
前夜の妹からの連絡では、モルヒネの投与を始めたということなので、もう少し楽になっているだろうと期待していたのですが。

私のことはもちろん、父のことも認識して、苦しい息の下「来てくれてありがとう」というようなことも言っていたのですが、それもやっとのことで。
とぎれとぎれに身体の位置を変えて欲しいこと、口に氷を入れて欲しいことなどを訴える母。
ナースコールをして、医師の確認の上でほんの少しモルヒネの量を増やしてもらったのですが、それでもまったく改善しません。
そして担当の看護士は私に「一週間ではなく、1日、2日の単位で考えてください」と。

そうこうするうちに叔母といとこ夫妻が到着し、また「ありがとう、ありがとう」と荒い息で繰り返す母。
みんなが見守るうちに、息づかいがさらに荒くなってきます。
とうとう看護士からは「数時間単位で」考えるよう告げられました。

そして母が「(妹の)Kによろしく」と。
もう逝こうとしているのです。
Kは今こちらに向かっているはず。
「K、今来るから! もう少しだから!」と母の手を握りながら、空いた手で「急いで!間に合わないかも!」と打つメールに返信はなく。
電話も通じないまま、信じて待つしかありません。

「Kは、Kは」「もう少しだから! 今向かってるから!」と切迫したやり取りの合間だったでしょうか。
今度は「こう、こう」と。
「え、氷? 氷ね?」と、口を潤すために口に含ませていた氷のかけらを唇に乗せるも、そうではないらしい。

母は「行こうね、行こうね」と言っていたのです。

じつは母と私は二人で旅行したことが、一度もありません。
ほんとうはずっと二人で行きたかったのですが、父に聞くと「S(私)が残るなら良いよ」「オレが死んでからにしてくれ」などと言うので、あきらめてしまっていた。
けれど、K病院にケアマネさんが訪ねて来てくれた日、母はぽつりと言うのです。
「夢は思っているだけじゃだめなのよね」と。
「私にも夢はあった」と。
「どんな夢?」と私が聞くと、私と自分を指差すのです。
そう、ふたりで旅行に行くこと。そんなささいなことが母の夢だった。

庭いじりの好きな母はイギリスに2度ほど旅行しているのですが、私と行きたがっていた。
いや、海外でなくてもどこでもいい、わがままで甘ったれな父など、拗ねようがいじけようが放っておいて行けば良かった。
だから生まれ変わったら、そう、きっと兄妹に生まれ変わって、行こうねと約束したのです。
(「生まれ変わってまた親子に・・・」というと反応が薄かったので「もう結婚はこりごりかぁ・・・じゃあ兄妹になろうね」と)

そう、もうひとつどうにも切ないこと、後悔していることがあります。
緩和ケア病棟に移った夜、妹に「80年生きて来て、初めて自分の部屋が持てたの」と、ぽつりと言ったというのです。

確かに母は昔から、ときおり「女は三界に家なし」ともらしていました。
自分の部屋が欲しかったのです。
なのに家をリフォームした時も母の部屋を作ろうとしたものの、うやむやになっていた。
でも最初のM病院から帰った時に、父の書斎を母の病室にできたのだから、とっくにあの部屋を母の部屋にしていれば良かったんです。
ちょっとした父への遠慮。私の怠惰。我を通すより我慢を選んでしまう母。
決して無理なことではなかったのに。その気になれば簡単なことだったのに。
シャイな少女の心を残した母の夢をかなえてあげられなかった自分を、私は一生恨むでしょう。


ついに妹が病室に駆け込み、母の手を握り、もう少しだけ「ありがとう」「ありがとう」を繰り返した後、母の目はガラスのようになにも映さなくなりました。
私は夢中だったせいか覚えていないのだけれど、妹によると「みなさんさようなら」と言った後、しゃべらなくなったそうです。

午後16時35分、母は逝きました。
82年の月日を野花のようにいじらしく、春風のようにたおやかに駆け抜けた生涯でした。

2011年11月28日月曜日

あれから

あれからまだ一月半ほどしか経っていないとは信じられません。
母は、11月のよく晴れた日に亡くなりました。

10月9日にM病院を退院して地元医の往診と訪問看護に頼りつつ自宅療養を開始しました。
今思えば3週間余りも自宅で過ごすことができたのですね。
変化が訪れたのは11月3日のこと。
ちょっと目を離した間に、ただ寝ていても呼吸が苦しい状態になっていたのです。
折悪しく祝日のため地元主治医にも連絡がつかず、2度目の救急車を依頼しました。
が、どこへ搬送するかという問題が…。
直近の救急病院といえばやはりM病院なので、救急救命士がそちらに連絡してくれたところ、受け入れを拒否されてしまいました。おそらく「延命拒否」に応じなかったことが原因でしょう。
そして地元診療所の連携病院へ連絡したところ、こちらはOKしてくれたので、中野のK病院へ。



当直の医師は、とりあえず酸素吸入と点滴をしてくれ、そして貧血がひどければ輸血をした方が良いかもしれないと。
え? 輸血?
M病院で「ムダだ」と拒否を迫られ、妹と「まるで吸血気になった気分」「血液銀行強盗にでもなりそう」と苦悶していた輸血をあっさりと「した方が良いかもしれない」というのです。
結局、問題は再出血ではなく、輸血はしませんでしたが、病院や医者によってこんなにも対応が違うのかと、びっくり。

そして、K病院に緊急入院した翌日、母のベッドのヘッドボードに記されている主治医の名前を見てまたびっくり。なんと地元のかかりつけ診療所の、元所長だった人なんです。K病院に移ったことは噂で聞いていましたが、まさか母の主治医として再会するとは。

このT先生、地元診療所時代は大変な人気で、彼女(女医さんです)の診療の日だけ待合室がやたらと混み合っていたものでした。元気だった母はむしろ父の付き添いとして顔見知りだったのですが、こんな形で再会するとは、T先生もおどろき、そして悲しんでいました。
私との面談では、「(母が)楽になることなら何でもします」と。他の診療所所長との兼任という多忙な身でありながら、母の枕元にしゃがみ込み、30分以上も母に語りかけ、母の半生の物語に耳を傾けてくれました。その時のT先生の頬を伝っていた涙が今も忘れられません。
こんな風に、80余年を生きて来た一人の女性としての母に、自らも同じひとりの女性として、温かく語りかけてくれる医師がいるなんて。回診でも顔を出したかと思うと逃げるように去って行くM病院の医師との差に愕然とします。

ただ、残念なことにこのK病院は中規模の地域病院とでもいうのでしょうか、一般病棟と療養型病棟(認知症や脳梗塞などのリハビリ患者が多い)の混合施設で、母の病室も4人部屋。夜中に叫び出す人もいたりして、とてもゆっくりと眠ることなどできません。看護士もみな親切ではあるけれど、扱いが荒っぽいときもある。ひとり部屋に移れないかと掛け合うも、空いていないとのことでした。
いくら主治医が良くても、母にとって辛い環境なので、医療面で不安はあるものの、「家に帰ろう!」と決めました。
そうした矢先、「間に合わないかもしれない!」とプッシュしていた緩和ケア病棟から「空きました」との返事が。
第一希望の病院ではないけれど、ついにホスピスに移れることになったのです。

2011年10月10日月曜日

自宅療養

療養と言って良いのかどうか。
ただ、本当にありがたいことに、母にはこれといって強い痛みや苦しさは無く、体調が安定しているため、決局のところ今日、退院しました。

いろいろな人がいろいろなことを言い、私自身の思い違いや、主治医の言葉足らず(早口で不明瞭な話し方のため、母などは「何を言っているのかよくわからない」そうです)が重なり、混乱したあげく、母も私もすっかり疲れてしまい、流れにまかせることに。

そもそも、主治医の話は、病院から直接ホスピスに行くのではなく、間にワンクッション、療養型病院というものに転院してホスピスを待つというものだったこと。
その療養型病院について、ケアマネさんや院内の医療連携センターというところの担当者は、今の母の状態で入るにはそぐわないと、揃って否定的だったこと。また、入院していた病院も急性期病院なのでいつまでもいられないこと。
かつ、連携センターが紹介して間をつないでくれると思っていたホスピスも、現在の母の状態ではかなり後回しにされるため、自分で直接コンタクトをとる方が良策とのこと。

そうした話を受けて、やはりいったん退院して自宅で過ごし、ホスピスに申し込みをする…という選択をしました。選択したというより、他に道がなくなってしまったという方が正しいかもしれません。

さらに、主治医は先日の話を受けて、O病院へ受診するものと思っており、彼の外来の予約は入れていないとのこと。すべてのデータを地元のかかりつけ診療所に当てて作ってくれました。
ケアマネさんはかかりつけ医とN病院とで今後診て行くと思っているので、またもや話に齟齬があり、その訂正も連休明けということになります。

そうしたゴタゴタは別として、退院祝いにと、今日もまた妹が料理をしに来てくれて、ぶりの照り焼きやあさりのみそ汁、サツマイモの煮付けにおひたしと、純和風料理をわが家のキッチンで作ってくれました。
今朝まで父と二人だった家に、母が帰り、妹が来ると、パッと灯がともったようになります。
いくぶんボケてきて、かつ耳がほとんど聞こえない父との会話の無い、いささかギスギスしがちな日々に嬉しい変化が起こるのです。

夕飯の食卓に、家族4人分が揃うのは、母ががんになるまでは絶えてなかったこと。仕事で忙しい妹も、ここ数年、夏休みやゴールデンウィークどころか年末年始にも帰らなくなっていました。
それが、母ががんになってからは、これで4回目の4人の食卓。
4人分のお箸を並べながら、ありがたさを噛みしめました。

2011年9月27日火曜日

ホスピス転院への勧め

輸血した後、とくに昨日はとても体調が良かったらしく、先に来ていた妹ともずいぶん長く話をしていたようです。
父も連れて行ってにぎやかになったのが嬉しくて、興奮してしまったためか、今日は吐き気がして気分が悪いとのこと。
「今日は来なくていいよ」と言われたものの、やっぱりマッサージをしに行こうかと迷っていると、主治医から話があるとのことで、結局行くことに。
主治医を待つ間、かんたんな足のマッサージでずいぶんと楽になったようなので、行って良かったのですが…。

恐れていた通り、抗がん剤はやはり無理だろうとのこと。ひそかに癌研の電話相談に聞こうと思っていた出血コントロールのためのバイパス手術も、主治医は再考を重ねていたそうで、結果、やはり止めた方が良いだろうと言う結論に。母も治らないなら手術はしたくないという気持ちなので、しぶしぶあきらめました。

そして打つ手がなくなった今、今後の方針についての話。

またもや延命拒否の話を確認されましたが、輸血についてはどうしても「無駄」という言葉を母には言えません。むしろ母はめまいがひどいときには「輸血して欲しい」と言っていたくらいなので。そのことを今日医師に伝えるべきだったと、今後悔しています。

本題はこのまま入院を継続して緩和ケア病棟、つまりホスピスのある病院に転院するか、退院して昨日母が決めた荻窪病院に紹介状を持って行くかどちらかになるということ。
在宅でがんばってみたけれど、やはり何かあった時の対応ができないので…と、主治医はホスピスへの転院を勧めました。
じつは母も、最後は在宅より病院が良いと希望しています。
が、昨日まで、「まだ早いけれど今のうちに考えておこうね」と妹にも言われていた最期のステップにもう足をかけることになると思うと、やはりわかってはいてもショックです。でも、母こそ、いろいろと思いを巡らしているはず。
「身体が疲れた」と言っていたし、死を怖いという気持ちはあまりないそうなのですが、後に残す私たちの心配ばかりしています。

ホスピスとは言ってもすぐに入れるわけでもなさそうで、今の病院で待機している間に急変するといきなり延命拒否の話を否応なくつきつけられる。
恐ろしく忙しい人なので、主治医に手紙を書こうかと思っています。

ただでさえ寝不足なのに、ホスピスをネットで調べたりして、またこんな時間に。睡眠不足は当分続きそうです。

2011年9月24日土曜日

TS-1、再出血、そして再入院

結局あの日の診察で、腫瘍マーカーはじめ血液検査の数値は入院前と同じレベルに戻ったとのことで、経口抗がん剤TS-1を始めることになりました。
薬の取り寄せやかかりつけの薬局の勧めで(TS-1をいきなり使うことを心配してくれた)診療所の診察を受けるなどして、2日ほど遅れて服薬開始。最初は吐き気があり、便の色が多少黒みがかっていたものの、ここ数日はめまいやだるさ以外は、食欲も少し戻り、体調自体はわりあい良かったのですが…。今日はめまいがひどくなり、夕方6時半頃、トイレから立てなくなってしまいました。今日3度目の便が、下痢でチョコレート色をしていたとのこと。
急きょ車でN病院へ。
貧血が悪化しており、緊急入院することになりました。

TS-1を始めるにあたり、事前に「再出血の可能性あり」との話は聞いていたのですが、他の副作用がそれほどひどくないため、少し期待していたところ。当直医の説明では、この連休中に急変の可能性もあるとのことです。

がんそものもによってなくなる前に失血死する怖れがあるということです。
その他の症状は目立ったものがないため、ひたすら悔しい。

日本対がん協会の老先生の説明でわかってはいたのですが、やっぱり悔しい。
なんとか血が止まって欲しい。
明日はKちゃんがうちにきてくれる予定だったのが、急きょふたりで病院へ行くことになりました。

血が止まりますように。
ママの身体、がんばって。

2011年9月13日火曜日

診察日

あれからはかばかしい進展もなく、じわじわと体力を落としているように見える母の状態に不安を感じつつ、私だけが慌ただしく過ごしています。

11日、日曜日はまたKちゃんが来てくれて、なんと、海鮮入りトマトリゾットとカボチャのサラダ、ショウガたっぷりのたまねぎスープという献立に加えて、冷凍保存用に手づくり餃子まで作ってくれました! いつの間にか料理上手になっていたKちゃん。平日は出張続きで外食に飽きてしまったそうです。私の負担を減らすために、翌日も出勤なのに日曜午後をまるまるつぶしてくれました。感謝です!

母は胃自体は痛みを感じないものの、げっぷを出さないと膨満感があって食べられない様子。加えて、ガスがたまってお腹が痛くなったり、下痢をしたり、一昨々日はどうも胃から出血があったらしく便が黒みを帯びていたと。昨夜は背中が痛いとのことで、マッサージをしました。どこかが不調でそれが緩和するとまた別のどこかが痛んだり苦しかったり…。

じわじわとがん細胞が勢力を増しているように思えて、始められるものなら一刻も早く抗がん剤を始めたい。でも、そのための体力があるのかどうか…。
すべては今日の診察で決まります。

いずれにしても転院の希望は主治医にぶつけてみるしかありません。
それで抗がん剤治療がまた遅くなるようなことがあるのでは、ということが最大の不安です。
当たってくだけるしかないのはわかっているのですが。

2011年9月8日木曜日

一進一退

なんとか母に体力をつけてもらいたいのだけれど、胃のムカつき、そして何より出血が怖くて無理をさせられない毎日です。

5日、日曜日は冷凍室にあったサワラをフライパンにほんのりガーリックで香りづけしたオリーブオイルで焼き、同じく冷凍室にあったジェノベーゼソースを添えてメインディッシュに。母の分はキツネ色の焦げ目のついた皮や骨を外して、ひとまわり小さくして出しました。
付け合わせにズッキーニと自家製プチトマトのバター蒸し。副菜は何だったろう?
忘れてしまったけれど、「美味しい、美味しい」とほとんど完食してくれたのがとてもうれしかったのです。
が、翌日、すっかり調子を落としてしまい、朝、昼、晩とごく少量しか食べられませんでした。

出血がひどくなったのでは…と恐れながらも、しかし、なんとか食べてもらわなければ体力も落ち、やせてゆく一方です。

そこで5日、月曜日の晩は、ほんの一切れずつ魚屋さんで買った卵焼きと昆布巻き、キュウリの薄切りしそドレッシング和えなどを前菜風に盛ってメインに。

昨日、6日は西荻に買い物に出て、西友や無農薬八百屋のナモ商会でいろいろと物色。冷や奴やごま豆腐のようなものなら食べられそうという母のために、美味しそうな絹ごし豆腐とごま豆腐を探したのですが…なかなかこれはと思うものがなく、昔よく行ったスーパーに行ってみたら、有名な『男前豆腐』を発見。ごま豆腐の方はどうということのないものでしたが、男前の絹ごしと合わせて、2色の豆腐をメインディッシュにしました。副菜は湯むきトマトだったかな?
悩ましいのは、父は最近、肉を食べたがるため、別メニューを出さなくてはならないところ。おまけに昼と晩は必ず漬け物を欲しがるし、佃煮は保存用の器から直箸でとってしまうので(何度注意しても止めない!)父の分だけ取り分けて…と、ひとつひとつはどんなに手を抜いても、配膳に手がかかることといったら!

決して調子が良いわけではなかった母が、2色豆腐は完食してくれたので、今日も続けて同じ主菜。父には冷凍庫にあった牛肉と焼き肉のたれで焼き肉、副菜として絹ごしのみの冷や奴を(父はごま豆腐が好きではないため…あぁ、ややこしい!)。野菜が足りないので、共通の副菜として、焼きナスのもずく酢和え。汁ものは昨日のタマネギのお吸い物の残りに、作り置きのだし汁を合わせてワカメを入れて、うまみたっぷりのお吸い物に。

母の勧めで、水曜夜の英語教室だけは続けているので、以上を慌ただしく用意して盛りつけ、配膳し、声をかけ、外出。
帰りに買い物をして家についたら、ふたりとも完食してくれていたので、苦心のかいがありました!

それにしても、どうして人間は毎日毎日1日3食も食べなくちゃならないんだろう?なんて、時折うんざりしてきます。特に昼ご飯の支度にうんざりしていた母の気持ちがわかる今日この頃。正直、母と二人だったらずっと楽なんですが。

明日は、父が嫌いなので母はずっと遠慮していたサンドウィッチを作ります。嫌なら父は食べなくてもよろしい!